2011年7月18日月曜日

不幸せの定義

幸せの定義はあるのか。私が最も関心のある問いです。せっかくの人生なのだから幸せに豊かに生きたい、そのために幸せになるにはどうしたらいいか知っておきたいと考えたからです。そのために少し哲学をかじったりもしました。
しかし実際に幸せとは何かという論点の哲学に出会えたかも自分では疑問であり、直接の答えも得ていません。しかしそれとは対の不幸せとは何か、私なりに理解、納得できるような考え方でに出会えました。
そしてその不幸せは幸せと表裏一体であり、不幸せを理解すれば幸せも理解できるというものです。
なので不幸せの定義を確認し、それを踏まえ幸せの定義を論じたいと考えています。タイトルが幸せの定義でなく不幸せの定義なのはそのためです。あくまでテーマは不幸せでなく幸せを求めることですが、不幸せの定義を踏まえ確認することで、その不幸せと対極の方へ向かうことで幸せに近づこうというものです。なので私の考える不幸せの定義を論じ、それをふまえた、意識しての幸せを論じます。
実際に幸せ不幸せなどは人により違う、主観的なもので客観的なものなどないということが多数であり正論とされているでしょう。人により価値観や生活、環境が違うのだから誰にでも当てはまる客観的な幸せなどはないというものです。
その通りだと私も思います。人は生きてきた環境がそれぞれ違い、環境により人の価値観や考え、それに基づいての行動とその結果から学んだことの蓄積で誰もがオリジナルであり、生きてきた中での経験、人生はその人だけのものです。誰であれ全く違う環境で育ち違う経験をすれば全く違う人間になっているでしょう。生まれて周りから経験すること全てが環境ですから、双子だって生きていく環境が違います。つまり誰も他人と同じ環境で生きていくことなどなく唯一の自分だけの環境(人生)を経験する中で自分だけの考え、価値観を培います。
その中で人が感じることが幸せ不幸せなのですから、それらの客観的な定義などはないでしょう。
しかし不幸せの定義に関してはほぼ普遍的であろう定義を見つけました。当然不幸せも幸せと同じように人が感じる価値観の一つであり人により色々な不幸せがあるでしょう。
しかしこの不幸せの定義は大抵の人に共通するだろうと思われます。その不幸せの定義とは結論から言ってしまえば孤独です。以下その根拠を展開していきます。

人は心に壁を持ちます。人は心を常に開いているのではなく状況により心に壁を設けます。心が裸で剥き出しでは傷つきやすいので心を守るためです。世界には嫌なことや避けておきたいことがいくらでもあり、それらに心を常にオープンにしていたら心は傷つき放題となっとしまうため、適度に壁を作り嫌なことなどをブロックして心を守っています。自分が傷つきやすい嫌な状況では外界のことに触れ傷つかないよう壁をつくり、逆にリラックスでき触れて楽しみたいことなどが外界にあれば壁を開けて心を開きます。
以降この壁をATFと呼びます。このATFは人の行動に現れる目に見えないものであり状況によっていくらでもありようを変えます。そしてATFは自分や他人を傷つけてしまうこともあります。嫌いで関わりたくない人に対しては壁を作り自分の心に触れられなないようにしておけば、自分は不快な思いをしなくて済みます。逆のケースであなたが相手の心に不快と判断されればあなたはブロックされ相手の心には触れることができません。もし相手が自分に好意を持ち近づいてきたとしても、自分が心をブロックした場合相手は無防備な心があなたの壁にぶつかってしまうので傷ついてしまうかもしれません。逆にあなたが相手に心をむけても、相手はあなたに壁を向けることによりあなたが傷ついてしまうこともあり得ます。
つまり人間同士のコミュニケーションでは相手が受け入れてくれるかという懸念が常にあります。このような煩わしさを避けようとATFを捨てることはできません。あくまでATFは人の一部であり取り払うことなどはできないからです。ATFも心を構成する重要なパーツの一つです。ATFは心の外界に触れる部位であり、心が無防備な際は心の皮膚、警戒している場合は鎧と硬さを変えます。
そして人はこの心の壁であるATFに常に悩み続けます。これにより人の心と心の間には常に障害物があるため互いに完璧に理解し合うことはできません。ATFが人の間にある壁であるし、それを超えるために言葉を練っても壁を超えようとアクションを起こしても相手が受け入れてくれる保障もありませんし、ATFをクリアしてもその人自身、心と価値観が違うため完璧に自分と相手の心が完璧に重なることは難しいでしょう。
その価値観というのは環境や状況により人自身や考えも移り変わるので時期やタイミングという運任せの要素にも左右されます。
他人とコミュニケーションすること、これは楽なことではないし体力が必要なことです。相手を知り自分というものを伝えるため言葉を練り、傷つけられるかもしれないというリスクを受け入れ心を見せにいくという行為ですから楽なことではありません。これらを放棄して逃げている人はただ自分の殼に閉じこもってるだけです。そうすれば自分はATFにより守られ何にもふれないため傷つかないし、何も学びません。しかし世界から逃げて自分の殻に閉じこもっている人間は自分がただ逃げているという自覚はない場合が多く、自分を納得させるだけの上手な言い訳をしています。本心は自分は傷つきたくなく外が怖くて仕方ないのです。
しかし外界に触れないでただ自分のATFにこもっていてもそこには自分しかいませんし、常に一人のため寒いでしょう。一人では心は満たされませんし世界に触れたいと考えるなら自分でATFを開いて自分から動かねばなりません。世界や他人がわざわざコンタクトに来てくれないからです。魅力を感じることを見つけたら自分から触れに、交流に行くのです。自分に有意義な経験をさせること、他人や世界に触れることをさせるのは自身だけです。自分から動かねば何も変わりません。変えたいのなら自分を変え、変化を起こすための行動を起こすしかありません。
なので相手と交流するには自分が壁を超え、相手の壁を超えられるよう動かねばなりません。その上で相手も交流を肯定してATFを薄くしてくれることでやっと交流が起こり得ます。その交流のためにはまず自分の心を見せるために、自分で言葉を練り相手に届けねばなりません。ATFはなくすことはできませんし、ATFをクリアしても心は人によってそれぞれ違う価値観、意見を持っているので直接心と心が完璧に重なり一致することはできませんが、交流のために自分の心を100%表現はできなくとも言葉を作り、相手に届けにいくのです。そして相手がその受け取った言葉を100%理解してくれる保障はありません。つまり自分の心を全て伝えようにもまず自分を100%言葉で伝えられるか、さらに相手が受けた言葉を完璧に理解してくれるかという課題が常にあり、理解してもらっても人により価値観が違うためその言葉が受け入れてもらえる保障もありません。
他人の自分とは違う価値観、考えに触れ、理解して受け入れるということはなかなか難しい行為です。自分とは違う考えを肯定するということは自分の考えを否定することでもあるからです。勇気を持って自分の積み重ねで在る今の考えを捨て、常に脱皮をして新しいものを吸収していくということを誰でもができるというわけではありません。
また相手と交流するために動く時には自分のATFをぶつけないよう気をつける必要もあります。ちゃんとあなたが自分は相手と交流したいという表情で接しない限り、相手はあなたが交流をしたいということがわかりません。仮に相手にまったくATFを向けておらず、ちゃんと交流をしたいという意思表情が伝わっていても逃げられてしまう、拒否されるケースもあるでしょう。
自分に経験したいことをさせるのも、なりたい自分を作るのはその人自身しかできません。自分をポジティブな人間にするのもネガティブな人間にするのもその人自身です。結局は自分で動いて変えなければ何も変えることはできません。ATFの固さはあなたの内なる心が設定しているものであり、現在のあなた自身を作ったのはあなたの意思です。できないといえば決して成功しませんし、 やると決心すればなんでもできます。ただそれが成功するかどうかの保証がないだけです。心がその人を作るのです。限界を決めるのも自分自身であり、どんな人間になるかを決めるのも自身です。
 人は生まれた時から人間関係をしています。生まれてから親との交流から言葉を学び、生活を学びます。成長すれば学校などの場で年が近い他人との交流により友人としての人間関係を学び、団体行動や上下関係も学びます。学校を出てからも他人と協力して生きていくことを前提に人間関係に触れ続けるので、一般的に生きるということは人間関係をすることです。そもそも人が一喜一憂していることは人間関係です。人生の中でのドラマは他人がいることにより経験していたはずです。人間関係をなくしたら人生はほとんど空っぽになってしまうでしょう。
家族を始めとする他人との人間関係のなかで色んな価値観やその摩擦、自分で考えることを経験して他人とは違う自分の自我、心が作られてきた現在が今のあなたです。つまりあなたが関わってきた全ての人間関係は、現在のあなたを構成する糧でもあります。
 社会も人間関係の延長です。他人と何かを行い、他人と役割分担をし、互いにその成果を交換して豊かに生活するという他人なしではあり得ない仕組みだからです。社会に頼らず自給自足などできる人は少数でしょうから、生きていくには社会、人間関係に関わる必要があります。
生きていて金を使う限りは社会の恩恵を受けているということ、つまり他人との役割分担を前提にして生きているということです。社会で生きるという視点で考えてもやはり生きるには他人が必要であり、必然として人間関係が発生するのです。社会は他人とより合理的に生きて行くために発生した人間関係であり、歴史はその社会の成長記録です。
 人間の共存、共生のためのシステムの試行錯誤の成長記録であり、人間同士の共存が人類永遠のテーマであることが歴史が証明してくれています。つまり人の人生の芯は他人との交流です。人の間で生きていく、これがどんな人間にも通ずるテーマです。
 では本題です。以上の人の一般的な生き方に対する考察から、人間の最大の関心事は人間関係です。時代や国に関係なく常に歴史上人間が悩み続けてきて、なおかつこれからも悩み続ける人類、社会、政治における普遍的な課題です。それがないということ、つまり孤独は不幸ではないでしょうか。歴史は共存共生を目指してきた人類の記録、社会は人類の役割分担で助け合いのつながり、人生は他人との交流という基盤に積み重ねていくのに、たった一人でいるということは客観的に健全であるとは思えません。
 もちろん常に他人と交流していることが正しいとは思いません。一人の時間を楽しみリラックスすることも有意義であり必要かとおもいます。他人との交流が異常に少ない、ないということを一般的な視点で考えると不幸であるということです。それに対して孤独は不幸でないとするのは他人あっての社会、歴史、自分の人生の基礎にある他人、人間関係という重要な要素を無視することであり、それはあまりに苦しい理論と考えます。
 常に一人の時間は作らず他人との交流のみを続けることをするべきということでなく、人生には他人という存在は重要な存在であり不可欠ということです。常識的に感じるままに考えても他人と良好な人間関係を築くのが健全なことであり、孤独というものは不幸でないでしょうか。

 ではこの不幸せを意識しての幸せとは何になるのでしょうか。不幸せの対極に幸せがあり、その幸せは不幸せと表裏一体でつながってるのならば良好な人間関係こそが幸せではないでしょうか。
 人間は普遍的に他人との人間関係の中で生きていくものであり、皆がフェアに過ごせるような成熟した社会、政治が世界の歴史が目指しているものです。事実誰もが、より良い人間関係を築き皆が他人と快く生きて行こうと意識して行動する世の中だったらそれ以上のものはないと思います。
 人間は人と人の間で生きるから人間と書くのだと聞いたことがありますが、真実だと思います。結局人は一人で生きていけないから他人と協力する必要があるのです。自分一人で生きていくとなると原人なみの生活しかできないでしょう。人生を振り返ってもあなたの人生は人間関係をベースに構成されており人間関係、他人との関わりがなかったら何が残るでしょうか。何も残らないのではないかと思います。
 人が生きていくということは他人と関わっていくことなので、人間関係が重要であり、良好なそれこそが幸せというのは言うまでもない当たり前のことかもしれません。
社会や政治経済は人間関係を基礎として存在し、歴史はその過程です。人類永遠のテーマは共存、共生であることを社会の仕組みと歴史、また一般的とされる人間の生き方が証明しており、人の目下の課題は他人との人間関係であります。その人間関係がない、あるいは異常に少ないということは人間として健全でなく不幸であり、幸せがこれの対極にあるとすれば良好な人間関係を築くことこそが幸せであるということが結論です。